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トップページ合コンで使えるネタ > ブレイク芸人のデビュー当時話
毎日テレビで見かける有名人達ですが、誰もが最初から華やかに活躍していたわけではありません。人知れず苦労した下積み時代もありました。そこで夢を実現するためにあきらめなかったブレイク芸人について、デビュー当時やデビューのきっかけ等をご紹介します。合コン中の会話でも頻出するテレビや芸能人の話題ですので、是非ご参考になさってみて下さい。

ダウンタウン

NSC在学中~デビュー(下積み時代)

小学校からの同級生だった2人は浜田さんが松本さんを誘ったことがきっかけで吉本にNSC1期生として入学しました。入学後、すぐに独特な感性から作り出される漫才は才能を見出されデビュー2ヶ月目にしてテレビ初出演で賞を獲得、その1ヵ月後にも漫才コンクールで大賞を受賞となり、NSC在学生では異例の早さで「なんば花月」の舞台に特別出演するなどNSC同期生(トミーズ、ハイヒール、銀次・政二)の中では注目されるコンビとして成長を遂げました。ちなみにこの頃はネタの2割程度は浜田さんもボケをしていました。

NSC1期生卒業後、同期生がテレビ番組や漫才賞レースで活躍する中、劇場周りの地道な活動を行っていました。この頃の劇場では漫才の出囃子を流すだけでも音響さんにタバコ1カートンや一升瓶を持っていかないと、流して欲しい音楽を流してもらえなかったことや漫才中にお客さんとケンカになったこと、劇場のギャラが交通費以下だったことなどを後に明かしています。
当時はお笑いブームが去った後で劇場に若い客がおらず、才能や実力とは反対にダウンタウンの漫才が理解されず、苦悩の日々が続きました。
しかしその後、多くの人からの助けもあり、客層を若年層にターゲットにおいた『心斎橋筋2丁目劇場in南海ホール』でダウンタウンを中心に集まった若手芸人と共に毎週末に開場することになりました。これにより徐々に人気を集めていき、次第に入場出来ない程の観客が詰めかける程になりました。
そして、ダウンタウンがメイン司会を務める番組「4時ですよーだ」が放送開始され人気が爆発、アイドル並みにファンが多数出待ちなどしていました。こうして着々と人気と実績を上げ、東京にも活躍の幅を広げていきます。
余談ですが、当時、そのファンの中に歌手のUAがいて松本さんの追っかけとしてバレンタインデーに何故かフランスパンをプレゼントしたそうで、後に音楽番組に出演した際、松本さんはそのことを覚えていて盛り上がっていました。

現在

今も多くの後輩たちから目標として掲げられるダウンタウンは2012年にはコンビ結成30周年を迎えました。コンビでテレビ番組のメインMC業を中心に第一線で活躍するほか、松本人志さんは独自の感性を活かした、書籍やオリジナルコント作品、映画監督・脚本など発表しています。浜田雅功さんは俳優、歌手としても活動の幅を広げ、多くの支持を集めています。
また、浜田さんはダウンタウンの最後について『花月での漫才』と決めていると言います。
お互いをリスペクトし、前進し続ける彼らの勢いはずっと続くでしょう!

マツコ・デラックス

デビュー当時

高校卒業後、美容師になり、そこからゲイ雑誌の編集、肉体労働などを経てコラムニストとなりました。ちなみに千葉県立犢橋高等学校の出身、SMAPの木村拓哉と同期生でしたが会話を交わしたことはなかったとのことです。
2000年頃から女装家としての活動を行い、最初のテレビでのレギュラーは東京MXの『5時に夢中!』のコメンテーターでした。
そこでの見た目と毒舌のキャラが立ち、他の業界関係者にも注目を集めました。また、日常生活では女装はしておらず、本人いわく『パートタイム女装』とのことです。
芸名は本名を文字って、豪華なイメージから名付け、他に候補は「マツコ・ロワイヤル」、「マツコ・インターナショナル」等が候補にありました。
衣装は既製品でマツコサイズは殆ど無い為自作で、最高で布の量は25mを一着に使用しました。
そして最も意外なのは、『肉が嫌い』であることです。ちなみに好きなものは『お米、ご飯』で、あのデラックスな巨体は炭水化物で培われたと言えるでしょう。

現在

数々のレギュラー番組を抱え、また、コラムニストとして幾つか雑誌での連載もしています。政治的発言や活動も度々話題となっており、新たな芸能界のご意見番としての顔も覗かせています。

タモリ

デビュー当時

地元福岡で様々な職種を経験する中で、ひょんな事からもともとファンであったジャズピアニストの山下洋輔や赤塚不二夫と出会い、この出会いをきっかけに上京に至りました。
上京後はタモリを特に気に入っていた赤塚不二夫の自宅である4LDKのマンションに居候し、ベンツは乗り放題、小遣いは月20万貰っていました。赤塚不二夫は最終的にタモリ夫婦を、自宅に住まわせ、自分は事務所に寝泊まりする生活を送っていました。何とも羨ましい暮らしですが、このことについてタモリは当時「才能を見込まれた居候だったから堂々としてないといけない」と思っていたとのことです。タモリと赤塚不二夫、両者の大物ならではのエピソードですね。
この頃のタモリは当然働いておらず、毎晩のように赤塚不二夫らが集まる喫茶店で芸を披露していただけでした。
これが次第に業界関係者の間でも話題となり、テレビデビューに繋がっていきます。芸能界入りを果たしたのは30歳の時でした。

現在

日本のお笑い芸人のBIG3の一人であるタモリ。サブカル長寿番組と知られる『タモリ倶楽部』や、お昼の顔としてすっかり定着している『笑っていいとも』はギネス記録にまでなっています。
タモリの名言として語り継がれる言葉の中に「やる気のある者は去れ」というものがありますが、いい意味で力の抜けたスタンスを持ち続けるタモリの独自の感性こそが彼の才能ではないかと思います。

スギちゃん

デビュー~下積み時代

名古屋吉本にて1995年に「フランクフルト」というコンビでデビューするも解散、その後上京し、事務所を転々とします。浅井企画に所属していた時に日本テレビ「雷波少年」の企画に抜擢されるもブレイクには至らず、チャンスを逃しました。
その後、コンビは解散。ピン芸人となり、「杉山えいじ」という芸名で2011年まで様々なキャラ芸の模索が始まります。有名なキャラものは『おっぱい先生』や『アイドル杉ちゃん』等。
また、下積み時代が長い為か、小型2級船舶、キャンプインストラクター、温泉ソムリエなど沢山の資格を所持しています。

現在

『R-1ぐらんぷり2012』で1人コント「ワイルドスギちゃん」キャラで初の決勝進出・準優勝を果たし、現在の活躍に至ります。2012年流行語大賞で年間大賞に持ちネタの『ワイルドだろぉ?』が選ばれました。
今や老若男女に浸透したギャグですね。しかし、この流行語大賞をお笑いタレントがこの賞を受賞すると、第一線から消える、というジンクスがあり、本人も不安を語っていました。
一発屋芸人の入れ替わりは激しいですが、是非とも活躍し続けてほしいものです。

とんねるず

高校卒業~デビュー

高校卒業後、2人は一般企業へ就職したものの、学生時代から挑み続けている『お笑いスター誕生』出演を目指しコンビを結成します。
またこの頃、事務所にも所属していない素人でありながらCM出演も果たします。当時は『貴明&憲武』として活動しており、4週目まで勝ち抜くが敗退、これを機にプロへの決意を固め、退職し正式にコンビを結成、コンビ名も『とんねるず』に改めました。その後、1982年に見事合格、グランプリ受賞となります。
その後、朝のテレビ番組に起用されましたが、プロデューサーとの衝突が原因で番組を降板、日本テレビから干されることになります。
その間はバーやクラブで下積み時代を過ごし、同じショーパブタレントであったグッチ裕三さん宅に居候していました。この居候時代、グッチ裕三さんは最初の結婚をして間もない頃でしたが、あまりの親密さに妻が「ホモだ!」とショックを受け、これがスピード離婚に至った原因と噂されています。
その後、新事務所へ所属をきっかけに、秋元康氏と出逢うなど徐々に周囲の環境も整われ、1983年にフジテレビの『オールナイトフジ』を皮切りにテレビ復帰を果たし、若者からの絶大な支持を集めるようになりました。

現在

芸能界の第一線で輝き続けています。
また、石橋さんも木梨さんもスポーツや芸術活動など、単体でも活躍の場を広げています。
ちなみに、とんねるずは自らを『芸人』とは言いません。これは専門的なお笑い芸を学んだわけではなく、あくまで部室あがりの笑いであるからです。他の芸人と違う雰囲気はそういったことに由来があるのでしょう。


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